みたもの備忘録

ジャンルを行き来するオタクの妄言。たまにまじめなこと

ファンレター出せばよかったナァ

ちょっと前に週刊少年ジャンプで連載されていた、Ultra Battle Satellite(以下UBS)という漫画の話。

ワールドトリガーにハマって本誌派になったときに、ちょうど3話とかそのへんだった気がします。あらすじというか話の筋としては、なんでもありのステゴロで勝てば賭け金が手にはいるぜ!それに主人公が挑むぜ!みたいな…(頭の悪い文章)

ストーリーとしてはもうひたすらノリだし、穴だらけだし、はちゃめちゃなんですけど、何故か好きでコミックスも発売日に買いました。

なんだろうな~、小難しいこと抜きにとにかくバトってるのが楽しかったです。だって金のためにバトルって最近のジャンプであまり見ないですよね。(単純にわたしの観測範囲が激セマなだけかもしれないのでコメントとかでおしえてください)正義とか国のためとかそういうのではなく金、あるいはステゴロ最強という肩書きだけが目的!さいこー!
あとももっちの太ももとかエロすぎず健康的で筋肉質、たくましい最高の太ももでした。ワートリのチカちゃんの太ももに並ぶ素晴らしさ。

でも、主人公が強くなるかもしれない…という期待をし始めた辺りで打ち切られてしまったかなしみ…。アンケート出したりしたんですけどね。

やっぱりファンレター出せばよかったなあ。3巻なんかほぼ書き下ろしでそれはそれで嬉しかったんだけど、もうすこし続いてほしかった。
もし作者さんがまた新作出したら全力応援するつもりです。

GRANRODEOライブツアー行きたいって話

GRANRODEOのライブツアー決定おめでとう!!!!!!!
夏か!仕事始まってるな!行けるかわからないけど行きたいなー!日比谷の野音で騒ぎたい!

定番のは除いて個人的に聴きたい曲は、冷めゆく熱、wish、ウィッチハンター、追憶の輪郭、あたりなんですけどこれやらないやつだな。(背徳の鼓動は去年のファンクラブイベントで聴けたので満足した)

ていうかこのツアー夏ってことは、ROCK☆SHOWは冬なんですかね。物販の待機列寒そうでいやだなあ…。

アニメ媒体がなんか苦手

タイトルそのまま~~~~~!

漫画原作アニメはたいていの場合原作のほうが好きで、アニメはあまり好きになれない人間です。たぶん、アニメという媒体が苦手なんだと思います。その理由を自分なりに考えてみたら、「自分のペースが崩されることが嫌だから」かもしれないと思いました。

当然ですが自分でめくって読まなきゃならない漫画と違い、アニメは勝手に流れていきます。そこが一番の問題なんですよわたしには!
つまり、漫画では「自分のテンポ・間で話を読むことができる」のに、アニメは「スタッフのテンポで物語が進む」んですね。当たり前ですけど。そこのテンポの差がどうしても許容できない。

わたしはわりと本読むの速い方で、漫画の単行本なら20~30分で読みます。そうなるとおそらく、わたしの頭の中で物語が流れるテンポはかなり速いです。その後にアニメを見ると、わたしの中でポンポン流れていたセリフや動きがのろい、もっと言うとテンポ感悪い!と思ってしまいます。

アニメ批評でテンポ感の悪さっていうのはよく言われますけど、わたしはそのハードルがものすごく高いんだろうな…なんだそれ…。

だからといってアニメ先、漫画原作後、という順番でも、最初はアニメ面白い!と思えるのに、漫画を読み終わってしまうと「あそこの流れはもうすこしこうしてほしかった…ここも…」と気になるところが多くなってしまうかなしみ。

わたしが楽しめるのは完全オリジナルアニメだけなのか……

せっかくなんだから大学の話をしたかったよ

学科の学生の交流会的なサムシングに参加してきたらみんな就活についての話ばっかりでちょっと残念だったという話。

学科内で縦のつながりがないよねという学生幹事の話から決まった(らしい)交流会に出たら、最初4年生がわたしだけで緊張しました。でもまあ就活の話はともかく学校の話ならある程度できるわな、とか思っていたら下級生(4人)全員が就活の話をしたくて来ていたらしく、わたし撃沈。
つまり、就活やってたけどそこまでガッツリじゃなかったし内定無ければフリーターでいいよねとか思っていたのであまり実のある話ができないということと、あとせっかくの交流会なのにキャリアセンターでできるような話に終始してしまうことへの悲しみ。

個人的にはもう少し、大学生同士ならではの話、例えば面白い講義の話だとか教授とのつきあい方だとか図書館の居心地のよい場所とかそういう話をしたかったのですが、世間の大学生には需要が無かったようです。残念無念。

世間や大学がこれだけ煽ってるし、就活のこと不安だろうし、当たり前といえば当たり前なんだけど、大学生にはもっと目の前のことをいっぱい考えていてほしいなー。

ファンである年数に対するコンプレックス

GRANRODEOが好きです。どれくらい好きかというと、こないだのカウントダウンライブに行ったくらいには好きです。めっちゃ楽しすぎて友人にテンション爆上がりのままLINE送ったり迷惑な人になってました。

あまり音楽をきく文化のない、かつアニメ見ない家庭だったので、アニソン方面は疎いのですが、高校の同級生がGRANRODEO好きだったのと、某アニメの主題歌だった曲が良くて買ったらそのままハマったという感じです。なのでファンである年数的にはまだ4年とかそんなもんです。初参戦ライブは横浜アリーナのライブですし。
GRANRODEO自体はもう10年やってるユニットですので、わたしはあの人たちのやってきたことの半分以下しか知らない。そこにコンプレックスがあります。

他人に対してはとくに思わないのですが、自分に
対しては「ファンである年数が少ないこと」が「よくないこと」のような気がしてしまうんですね。「彼らの10年をまるごと知ってるわけではないのにファンを名乗ってしまってる…」みたいな。もちろんアーティストに新規ファンが増えることはいいことです。そして、その新規ファンがここ最近のことしか知らないのは当たり前です。でも自分のことになるとコンプレックスになってる。
昔から追いかけてるファンへの羨望もあります。いいなー、わたしももっと早く知りたかった、という。

とくに2015年は10年の節目だったので、「10年間ありがとう!」的なことがGRANRODEO側からもファンの側からもお互い言われていて、余計に「年数コンプレックス」爆発してました。あーわたしみたいな新参でも古参でもない微妙なやつがお祝いしてごめんなさい…みたいな。

もちろんGRANRODEOの楽曲が好きなのでこれからもたぶんCDは買い続けるでしょうけど、それと同時にコンプレックスは抱き続けると思います。

鈍感を他人に押し付けるということ

本日(1月26日)はなんだかTwitter腐女子界隈が荒れていますね。某松さんとかリバvs固定とか。

とくに後者の話、BL(だけに限った話ではないですけど)のリバvs固定の話についてなんとなくエントリにまとめます。

発端のツイートは消えてしまったようなのでわたしの断片的な記憶で話すことになって申し訳ないのですが、なんか「左右なんて気にしなくてもその二人であれば云々」みたいな内容だった気がします。個人的意見としては大体賛成ですが、それはわたしがリバ寄りだからです。(トートロジーぽいなこれ)

もちろん固定派の人にとってはこれは許されざる所業なわけですね。この溝は海よりも深く壁は山よりも高い。pixivとかで女性向け男性向けの住み分けがーとか言われてますが、腐女子内でもこのような住み分けはなされています。Twitterのbioに地雷カプを書いたりしてますね。

でもこれはもう個人の嗜好というか、もっと言うと信仰に近いというか、他人にとやかく言われてどうなるものでもないんですよね。わたしも他人からこれ以降ずっと固定にしろとか言われたらキレる。


話が飛びますが、年末あたりにONE PIECEのサンジくんについて色々ありましたね。あの時、「~カムバックしない」の人はサンジくんを話のきっかけにしてONE PIECEにおけるジェンダー観に抱いた違和感を語ってた(とわたしは読んだ)けれど、その反論記事では「わたしは鈍感で傷つきにくい人間だから気にしていなかった」というようなことが書いてありました。

サンジくんの話は本筋からはちょっとずれてるのであんまり比較とかできないかもしれませんが、この2つは「鈍感」を無意識かもしれないけれど押し付けてるように感じてしまいました。この場合の鈍感は「あまり気にしない」程度の意味合いです。

つまり「その二人であることが大切だから左右固定に意味を感じない!」という鈍感さ、あるいは「わたしはONE PIECEジェンダー観に特に違和感を抱かない!」という鈍感さ。それは個人の自由だし、たしかに鈍感な方が許容範囲が広がるけれど、それを他者にまで求めるのは争いの種だなあと思ったのでした。

演劇における、あるいはテレビにおけるリアリティ

大学卒業をまえにして、友人に借りっぱなしのDVDを見なきゃ!と思い立ち、少年社中「ラジオスターの悲劇」を見ました。松本寛也さんの話をしていた流れで貸してもらった記憶があります。なつかしい。

内容についてはここでは省きますが、演劇いいなー!生でみたいなー!と思える面白い舞台でした。2月末から同じところの公演がサンシャイン劇場であるらしいので、チケット手配しました。相変わらず早い行動。


それはともかくとして、「舞台演劇作品をテレビ画面を通して観る」という経験が初だったので、それに関して思ったことをつらつらと書いていきます。ちなみにわたしはメディア論とかまったくかじってもいないので、このエントリはあくまで個人的感想の上、そんなに目新しい論ではないです。たぶん何万回も語り尽くされてるしもっと出来のよい文あるはず。わたし個人の思考整理です。


あんまりドラマとか映画観ない系の人間なのでこのへん適当ですが、ドラマや映画は「現実に近いこと」によってリアリティを出していると思います。ロケがんばるとか、スタジオのセットはなるべく外に近く見えるように、細かいところまで作り込むとか。

演劇の場合は、「現実から離れること」によってリアリティを追及しているのかなと思います。現実を削ぎ落として、離れて、そこにリアリティを感じる…?(自分の発言に疑問符しか付かない)

昨年にあやめ十八番「雑種 晴姿」を観たのですが、舞台にあったものはたしか大きな鳥居と長机と椅子だけだったような気がします。演劇とは違いますが、先輩が歌役者をしているオペラシアターこんにゃく座のオペラを観たときも、机と椅子と窓枠とか、土台と幕と物干し竿みたいな棒とか、そんな程度だったように思います。つまり、かなりシンプルです。それで、そのシンプルなセットを演技でいろんなものに見せてくれるのが面白いところだなあと思っています。前のシーンでは木こりの家だったのが、次のシーンでは脱走兵の舟になり、その次は隠れ家になる、みたいな。

これはごっこ遊びのレベル高いバージョンという感じで、現実に近いという意味でのリアルではないですね。でも、その場にいて観ている人はそこに(かなり抽象的な)リアリティを感じています。そしてそのリアリティは、演技の意味が伝わるかぎり画面を通しても理解はできますが、その場に居ないとおそらくほんとうに分かって、共有することはできないのではないかと思います。


そしてこれを逆にしてみたら、たぶん恐ろしくつまらないしよくわからないものなんですよね。テレビドラマが質素なセットでパントマイムのごとき演技だったり、舞台演劇のセットが観客から見えないくらい細かいところがやけにリアルだったり。(まあ演技とセットの問題だけじゃなくてカット割りのあるなしとか音響とかそういう諸々すべて含めてドラマ(あるいは演劇)の特徴なのですげー暴論ですが…。しかもテレビとドラマが混在している。ごめんなさい。)


わたしが「演劇をテレビ画面で観る」ことで覚えた違和感は、そういう「リアリティを出す際の力の置き所」の違いなのではないだろうか、と思ったのでした。あと「伝わるけど伝わらない」ということ。演劇は、観劇者との間に画面が挟まって、時間が挟まってしまうことを想定していない構造なんでしょうね。