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とりとめなく綴る

ジャンルを行き来するオタクの妄言。たまにまじめなこと

当事者であり非当事者であること 「しまなみ誰そ彼」を読んで

お久しぶりです。
以前にもご覧いただいた方には分かると思いますが某ソシャゲの記事消したのでかなり間が空いてしまいました。


さて、今回は鎌谷悠希先生の「しまなみ誰そ彼」の感想、およびそれに付随する話です。


クラスメイトに"ホモ動画"を観ていることを知られた、たすく。
自分の性指向が知られたのではないかと怯え自殺を考えていた彼の前に、「誰かさん」と呼ばれる謎めいた女性があらわれた。
彼女は、たすくを「談話室」へと誘い…?

(あらすじより引用)

鎌谷先生といえばGファンタジー連載作「隠(なばり)の王」を思い起こす方は多いのではないかと思います。わたしも隠の王からファンになり、「少年ノート」「ぶっしのぶっしん」そしてこの「しまなみ誰そ彼」(以下、「しまなみ」)と追いかけてきました。
また、鎌谷先生はご自身もいわゆる「セクシャルマイノリティ」に属されていることを公表されています。(この「属する」というのがまた厄介なんですよね。それはしまなみ2巻の感想と絡めて後程)
ですので、しまなみ連載の報を聞いたときは、本当に本当に嬉しくて、楽しみで、待ちきれずにいました。

この作品を読んでみて思ったのは、読むことにこんなにも体力が必要な作品はなかなかないだろう、ということです。
「ホモ動画」騒動の翌朝登校したたすくのことをからかう男子、たしなめる女子と教師、その全てに含まれる意識的・あるいは無意識の差別的な響き、ばれた瞬間の心臓が飛び出すかのような吐き気と焦り…
あまりにも生々しいです。読んでいてもしんどくて、休憩を挟まないとこちらまでひきずられてしまいそうなくらいに。

わたしは、セクシャルマイノリティを描く物語は、得てして理想郷的になりやすいと思っています。
また、ゲイやレズビアン性同一性障害のように、「名前のついた、”わかりやすい”セクシャルマイノリティ」に偏ってしまうことも多いのではないかと思います。
つまり、「同性愛者(あるいは性同一性障害)が、社会から差別を受けても色々な壁を乗り越えていく」のような、ドラマチックな話。(もちろん否定しているわけではありません。ハッピーなほうがいいもんね)

でも、果たして、現実にわたしたちが向かい合う問題はそんなに単純化できるのでしょうか。
そもそも、「セクシャルマイノリティ」と言っても千差万別十人十色、象徴たるレインボーフラッグが表すように、性はスペクトラム(連続体)です。カテゴリー分けはもちろん便利ですが、そこからもこぼれる人たちはどうすれば良いのでしょうか。
しまなみ2巻でメインとなる美空さんは、男として生まれ、男であると自認していますが、女装をしています。
美空さんは性同一性障害というわけではなく、でも声変わりなど男性性が自分に表れることにひどく不安や恐怖を感じているようにも見えました。じゃあ、美空さんはなんなのか?


「僕のことなんか僕にもわからん。」
「誰にも。」
「なんにもわからん。」

(「しまなみ誰そ彼」2巻63,64頁より引用)

二巻では、たすくが美空さんと段々打ち解けていくさまを描いていますが、とある出来事により、美空さんは談話室へも顔を出さなくなってしまいます。

ネタバレになるのでその詳細は省きますが、そこまでこじれてしまったのは、たすくと美空さんがお互いに当事者であり、同時に非当事者であったからなのではないかと思います。

たすくは性自認が男で、男性が好きで、美空さんも性自認は男だけれど、女性の格好をしたくて、男性的な身体になるのを怖がっていて…

セクシャルマイノリティ、あるいはLGBTというくくりでは確かに二人は(もちろん同じ談話室メンバーの大地さんも)同じカテゴリの当事者なのかもしれません。けれども、細かくほぐしていけば最終的には、個々の人間しかいない、のでは?

たすくは、無意識にカテゴリで美空さんを見てしまっていたから美空さん本人が見えていなかったのかもしれません。こうすれば、こう言えば、こうなれば、○○というカテゴリにいる美空さんにとっていいのではないか、という思い込み。それが逆に美空さんを傷つけてしまったのではないでしょうか。
もちろんこの決めつけはたすくだけでなく、美空さんの側も、ゲイならこうなんじゃないですか、ということをたすくにずけずけと言っていたりします。

二人がお互いのことを属性や要素で見ることなく、ただ個別の人間であるということを分かるといいなあと思います。

次巻へのヒキも気になる感じですので、皆さん今のうちに買って読んでください、そして一緒に苦しもう!!!