みたもの備忘録

ジャンルを行き来するオタクの妄言。たまにまじめなこと

演劇における、あるいはテレビにおけるリアリティ

大学卒業をまえにして、友人に借りっぱなしのDVDを見なきゃ!と思い立ち、少年社中「ラジオスターの悲劇」を見ました。松本寛也さんの話をしていた流れで貸してもらった記憶があります。なつかしい。

内容についてはここでは省きますが、演劇いいなー!生でみたいなー!と思える面白い舞台でした。2月末から同じところの公演がサンシャイン劇場であるらしいので、チケット手配しました。相変わらず早い行動。


それはともかくとして、「舞台演劇作品をテレビ画面を通して観る」という経験が初だったので、それに関して思ったことをつらつらと書いていきます。ちなみにわたしはメディア論とかまったくかじってもいないので、このエントリはあくまで個人的感想の上、そんなに目新しい論ではないです。たぶん何万回も語り尽くされてるしもっと出来のよい文あるはず。わたし個人の思考整理です。


あんまりドラマとか映画観ない系の人間なのでこのへん適当ですが、ドラマや映画は「現実に近いこと」によってリアリティを出していると思います。ロケがんばるとか、スタジオのセットはなるべく外に近く見えるように、細かいところまで作り込むとか。

演劇の場合は、「現実から離れること」によってリアリティを追及しているのかなと思います。現実を削ぎ落として、離れて、そこにリアリティを感じる…?(自分の発言に疑問符しか付かない)

昨年にあやめ十八番「雑種 晴姿」を観たのですが、舞台にあったものはたしか大きな鳥居と長机と椅子だけだったような気がします。演劇とは違いますが、先輩が歌役者をしているオペラシアターこんにゃく座のオペラを観たときも、机と椅子と窓枠とか、土台と幕と物干し竿みたいな棒とか、そんな程度だったように思います。つまり、かなりシンプルです。それで、そのシンプルなセットを演技でいろんなものに見せてくれるのが面白いところだなあと思っています。前のシーンでは木こりの家だったのが、次のシーンでは脱走兵の舟になり、その次は隠れ家になる、みたいな。

これはごっこ遊びのレベル高いバージョンという感じで、現実に近いという意味でのリアルではないですね。でも、その場にいて観ている人はそこに(かなり抽象的な)リアリティを感じています。そしてそのリアリティは、演技の意味が伝わるかぎり画面を通しても理解はできますが、その場に居ないとおそらくほんとうに分かって、共有することはできないのではないかと思います。


そしてこれを逆にしてみたら、たぶん恐ろしくつまらないしよくわからないものなんですよね。テレビドラマが質素なセットでパントマイムのごとき演技だったり、舞台演劇のセットが観客から見えないくらい細かいところがやけにリアルだったり。(まあ演技とセットの問題だけじゃなくてカット割りのあるなしとか音響とかそういう諸々すべて含めてドラマ(あるいは演劇)の特徴なのですげー暴論ですが…。しかもテレビとドラマが混在している。ごめんなさい。)


わたしが「演劇をテレビ画面で観る」ことで覚えた違和感は、そういう「リアリティを出す際の力の置き所」の違いなのではないだろうか、と思ったのでした。あと「伝わるけど伝わらない」ということ。演劇は、観劇者との間に画面が挟まって、時間が挟まってしまうことを想定していない構造なんでしょうね。

成人式と振袖とわたし


成人式で女子は振袖を着ることがだいたい決まっています。わたしも赤い振袖を着ました。

振袖はとても素敵で好きだったのですが、化粧をしておめかしした自分のあまりのどうしようもなさと、あまりにも「大人の女性であること」を周りの大人に言及されたことがつらすぎて、着物を着ること自体に苦手意識ができてしまいました。

ひとつめの方は単純に自分の顔が自分で好きになれないとか不細工とかそういう話なのでまあ仕方ないといえば仕方ないです。整形しろ。

ふたつめが厄介で、わたしは女性であることに違和感はないのでたぶん性自認は女なのですが、「社会から女性として見られること」がとても嫌です。女性らしいことに対して、ではなく、女性らしいと他人から言われることに対して、です。すげえめんどくさいなこいつ…。具体的には、おばちゃんから「おめかしして振袖着て素敵な大人の女性らしくなったわね~!」みたいに言われたとき、なんだか無性に悲しくて泣きたくなってしまいました。
なんだろうなー、女性性に社会から付与される価値が嫌いなのかな?ジェンダー論ぽくなってきますけど…。あと、そもそもわたし性というものが好きじゃないからというのもあるかもしれない。

振袖に限らず、ドレスとかもそうですね。普段着だとフェミニンなワンピースとかかな。カジュアルなスカートは比較的そういう意識ないかも。ドレスは女性ならではの服装である(あった?)から、そんなのワガママじゃないか?と言われるかもしれないですが、わたしは性を意識せずに服装を選べるようになりたいです。服装に紐付けされた性を取り払って、個人個人が着たいから着ているという意識を周りも共有してほしい。

この紐付けがあって社会からの押し付けがある限り、わたしはドレスとか振袖とか着るたびに悲しくなるんだろうなぁ。

自己嫌悪とか自意識過剰とか

こんにちは。ゆんかわです。
今回は暗い話です。あと単なる自分のなかでの整理。Twitterでよくやってるやつだ!!!

わたしは自分が嫌いです、というより人間存在であることが根本的に嫌いです。好い人悪い人とかそういうことではなく、人間として生きているのがつらいなあとふとした時に思います。ゾウリムシとかミドリムシになりたい。

で、自分が嫌いなので自己肯定感もかなり低いのですが、それゆえネガティブな自意識過剰になってるなあと思うのです。
わたしは自意識過剰はネガティブとポジティブがあると思っています。(自意識過剰が周囲からポジティブに捉えられることはあまりないですので、この場合のネガポジは内的な意味です)
ポジティブな自意識過剰ってのはふつうに使う場合のほうです。ネガティブな自意識過剰は、自分が嫌いすぎるゆえに自分の価値を低く見積りすぎて、すべての原因を自分に帰することと個人的に定義しています。客観的には「ぜんぶお前のせいとかそんなわけあるかバカヤロウ」って感じです。それは自分もわかってますが、でもそう感じてしまうので仕方ないです。
これが行きすぎると、次は「自分は価値がなくて不幸せになってもいい人間だからみんなのぶんの苦労を背負いこもう」になります。バイトが死ぬほど忙しかったとき、店長や他のバイトさんが死んだ目で働いていて、わたしはこの思考で働きまくっていました。今考えるとブラック企業かよって感じだし、将来的にブラック企業に引っ掛かりそう感プンプンしてますね。やばい。

もちろん痛いのいやだとかつらいのいやだとかそういう自己愛?的な気持ちもちゃんとあります。でも根本的にどうしようもなく自分が嫌いで価値を感じられなくて、どうすればいいかわからないです。自分のこと好きな人に生まれたかった。おいしいものとか食べてるときはそういうの気にせずいられるからずっとなんか食ってればいいのか?

自分がこうだからといって、自分のことが好きな人に「あなたはお幸せで羨ましいですわ、何にも悩みがないんでしょうねえ」なんてやらしいことは言いませんけれど、やっぱりなんでこんなめんどくさい人間なのか考えると落ち込みます。
将来のこととか考えたくないなあ。

ワールドエンブリオ読みました

また漫画の話だーーーー!

友人にワールドエンブリオを全巻借りて読みました。最高に面白かったです。伏線がちゃんと回収される漫画ってものすごくいい。

Twitterでも言いましたが、蟹とか栗を食べるような気分になる漫画です。おいしいところにたどり着くまで皮むいたり大変だけど、たどり着いた身の部分はとてもおいしい、というか大変なぶん更においしい。(噛めば噛むほど~なスルメでもあるけど、個人的には蟹とか栗)
最初はとても失礼ながら、あーよくあるかっこよさげなネーミングの能力バトルものだなとか思っていて、しかし友人からおすすめされ借りた本なのでとにかく読もう、と読み進めたら化けました。7巻を読み終えたところでぼーっとしながら「この漫画、すごく面白いな…!?」となり、あとは一気に読破。
途中で柩姫の名前とか人格とかこんがらがったりしましたが、伏線回収してくれるしちゃんと読めばわかる話なので面白く読めました。過去編と現在の時系列がものすごく練られていてすごい。あと唐沢くんの至った仮説のような、世界を根底からひっくり返す真実、というのが大好物なのでゾクゾクしました。

そういえば、世界規模の危機なのにほぼ日本というか東京のみで話が進んでいくのが漫画的だなあと思いました。これがセカイ系というやつですか?(ちがう気がする)

ラストは誰にも忘れ去られたままでも大変好みな展開ですが、やっぱり円満ハッピーエンドはいいですね。泣きました。

キャラクターの話をすると、タカオは最初に出てきたときに裏主人公だろうなーと思っていたのであのポジションはわかるんですよ。(女の子とのエピソードよかったです)トーゴがね!最後のほう主人公より主人公に見えました。(リクごめん)名字からして重要人物なのは明白だったんですけど、あんな第一線で戦うような活躍するとは…狙撃型の刃旗がとてもかっこよくて好きです。ぴったりスーツもそういう層から人気ありそう。好き。

こういう漫画に出会えるのたのしいなー。友人ありがとう。(ちなみにわたしもワールドトリガーとMAMAを布教しました)


追記:書くの忘れてたけど、霧島兄妹がバッカーノ!のバカップルぽくて好きです。たぶんみんな思ってる。

MAMAという漫画について

@バンチで連載されていた「MAMA」という漫画があります。全6巻、作者は売野機子先生です。

1年半ほど前、池袋のアニメイトでたまたま見つけ、表紙買いをしたらものすごくツボに入った作品です。この漫画がとても好きなのですが、魅力をうまく説明できなくてうまいマーケティングができませんでした。
そこで、ブログ開始というこの機会に、無い語彙力を振り絞ってこの作品を紹介したいと思います。ネタバレになるかもしれない、ならないかもしれない。見切り発車です。

この漫画の魅力は「言葉で語らないゆえに饒舌であること」だと個人的には思います。(うーんかっこつけた言い回しだ)
シチュエーションでいえば少年合唱団であるクワイア、その寄宿舎、ヨーロッパの村、"美しい声を得た少年は天使として天国に召される"という信仰…といくらでも羅列できます。
けれども話を簡潔に述べるとなると、何を話せばよいのかわからないんですよね。クワイアの少年たちの過去や未来や現在の話としか説明できない…。
"美しい声を得た少年は天使になる"という信仰は物語のキーですが、この漫画はミステリではありませんのでその仕組み・謎は特に解かれることはありません。2巻ではある少年が天使になったことを若い刑事が捜査し、謎を解き明かそうとしますが、できませんでした。これはこの漫画を天使というトリックを使ったミステリとして読もうとする読者への答えだったのではないかと思っています。
つまり、天使になるという事象を軸として、少年たちの恋愛や家族、神への信仰、そういうものを描いたのではないかなと思います。そのとき天使になることのメカニズムは必ずしも重要ではない。

で、ですね。最初の話に戻りますが、売野先生はこれを語らずに描いてくれるのですね。読むとわかりますがセリフだいぶ少ないです。あとモノローグ多いかも。少年の心のゆらぎを表情とか、本人にしかわからないようなモノローグ(リアルだとおもう)
で描いてる…というか…うまく説明できない…。
シオンの話とかものすごいよかったです。人間の中にある背反する感情のせめぎ合いというのでしょうか、彼の苦しさがとても伝わってきたと思います。(すごい上からだなあこれ)文で語らないからこそ、彼らの感情がダイレクトに伝わる、そんな漫画です。


これでおすすめできてるのかわかんないですけど、気になったら手に取ることをおすすめいたします。ぜひ。