みたもの備忘録

ジャンルを行き来するオタクの妄言。たまにまじめなこと

映画「この世界の片隅に」 陳腐なる感想

お久しぶりです。あやめの感想を書きたかったのですがひと月経ってしまったので断念したゆんかわです。日にちがありすぎて他人の感想と混じってしまった…。

ので、今回は観に行きたてホヤホヤの「この世界の片隅に」の感想です。
舞台は行くくせになぜか映画を観るという行為が本当に苦手な人間なので、行くべきと思いつつもなかなか重たい腰を上げられず、年明けになってしまいました。
どういう内容、どういうスタンスの映画なのかはTwitterなどでぼんやりと把握していたのですが、決定的なネタバレは踏まないように頑張っていたので、物語に対してはまっさらに向き合えたかな~~~と思います。
観終わったあと、涙をボロボロ流しながら脳みそをフル回転させたのですが、どーーーしても陳腐な言葉しかでて来なかったので、開き直ってブログにします。
ちなみに序盤からラストまでのネタバレ全開なので観てない方は今すぐUターンをお願いします。

全体的な感想

いつだったかTwitterで、のんちゃんの演技がどんどんすずさんそのものになっていく、みたいな感想を見かけて、本当にその通りだったな………と思いました。本職の皆さん(細谷さんとか最高に優しい声だった好き)はもちろん完璧なんですが、のんちゃんって正直滑舌そんなに良くないし(批判ではない)、広島の出身でもないし、浮いてしまいそうな気がしてたんですが、観ているうちにそんな感覚はなくなって、すずさんがしゃべっているなあ、という気持ちだけになっていました。すずさんのぼーっと感とのんちゃんのぼーっと感がリンクしてたのかしら。

随所に挟まれる、クスッとするシーンが、間の取り方とかが絶妙で、厳しい時代の中の少し気持ちのほぐれる瞬間ってあんな感じなのかな、なんて思いました。個人的に好きなのは憲兵に絵を見つかったあとのみんなが笑っている(すずさんだけがむくれてる)シーンです。いいおうちに嫁いだね……(誰目線なんだろうか)

あとすずさんと周作さんがちゃんとお互いに好き合っていて、慈しむように暮らしている、それだけで幸せで、防空壕の中で口づけをしている場面では泣くところではないだろうにめちゃくちゃ鼻をすすりハンカチで涙を拭っていました。ささやかな幸せにやられる。


「恐ろしさによる涙」が流れた

毎年夏になると、テレビでよく戦争ものの番組やってますよね。最近はCGの進歩で爆撃シーンが非常にリアルだったり、あと当時の写真・映像をカラーにしたりリマスター?をしていたり、終戦から何十年後に生まれた私たちでもかなり鮮明な視覚イメージを得ることができるようになっています。
また、小中学生だと学校の行事でお年寄りの体験談を聞くこともあると思います。

でも、そういうものを見聞きしていても、個人的に恐ろしさというのはあまり伝わってこないと思っていました。グロテスクで悲惨で、血にまみれている戦争体験は、グロテスクで悲惨であるがゆえに、私のこの清潔で整った生活からは乖離して感じられました。「そうなったら嫌だなあ」くらいの感覚で、恐ろしさまではいかない、グロテスクな物事への嫌悪観止まり。
つまり、戦争による「恐怖」をあまり感じたことがありませんでした。

ですが、この映画で、人生でほぼ無いであろう「恐ろしさによる涙」を流しました。
Twitterでも言及しましたが、爆撃機の落とした爆弾が上の畑や家屋にダダダッと刺さる場面、それとすずさんとはるみちゃんがいる防空壕が空襲でゴオッと揺れる場面、このふたつのシーンは本当に「こわい」という感情から涙が出ました。

リアルなCGより、お年寄りの語る言葉より、あの飛んでくる爆撃機を大砲で打ち落とす、絵の具をカンバスにぶつけたようなあのシーンが、人生で一番「恐ろしい」戦争の場面でした。


技術?的な感想(素人だけど)

終戦のラジオ放送のあと、上の畑で泣くすずさんのシーンをみて、「そうか、このためのカメラワークだったんだな」と感じました。
まあバトルものでもないですし、カメラの位置は基本的に固定というかあんまり凝ったものではないのは当たり前なんですが、最初からずっと第三者的な、距離のあるカメラで、この場面になって地面の虫のような近さ、あぁ、と思いました。すずさんの感情がそれまでのどの場面よりダイレクトに流れ込んでくるような、そんな感じ。
(「二人分」のいもごはんのとこもやたらに強調かかってた気がするけどそれはそれ)



日曜の朝には少しばかりヘビーでしたが、観てよかった!と本当に心から思える映画でした。
映画は原作から色々なところをカットしているでしょうし、表現方法が違うとまた受け取り方も変わると思いますので、ぜひ原作も読んでみたいと思います。

当事者であり非当事者であること 「しまなみ誰そ彼」を読んで

お久しぶりです。
以前にもご覧いただいた方には分かると思いますが某ソシャゲの記事消したのでかなり間が空いてしまいました。


さて、今回は鎌谷悠希先生の「しまなみ誰そ彼」の感想、およびそれに付随する話です。


クラスメイトに"ホモ動画"を観ていることを知られた、たすく。
自分の性指向が知られたのではないかと怯え自殺を考えていた彼の前に、「誰かさん」と呼ばれる謎めいた女性があらわれた。
彼女は、たすくを「談話室」へと誘い…?

(あらすじより引用)

鎌谷先生といえばGファンタジー連載作「隠(なばり)の王」を思い起こす方は多いのではないかと思います。わたしも隠の王からファンになり、「少年ノート」「ぶっしのぶっしん」そしてこの「しまなみ誰そ彼」(以下、「しまなみ」)と追いかけてきました。
また、鎌谷先生はご自身もいわゆる「セクシャルマイノリティ」に属されていることを公表されています。(この「属する」というのがまた厄介なんですよね。それはしまなみ2巻の感想と絡めて後程)
ですので、しまなみ連載の報を聞いたときは、本当に本当に嬉しくて、楽しみで、待ちきれずにいました。

この作品を読んでみて思ったのは、読むことにこんなにも体力が必要な作品はなかなかないだろう、ということです。
「ホモ動画」騒動の翌朝登校したたすくのことをからかう男子、たしなめる女子と教師、その全てに含まれる意識的・あるいは無意識の差別的な響き、ばれた瞬間の心臓が飛び出すかのような吐き気と焦り…
あまりにも生々しいです。読んでいてもしんどくて、休憩を挟まないとこちらまでひきずられてしまいそうなくらいに。

わたしは、セクシャルマイノリティを描く物語は、得てして理想郷的になりやすいと思っています。
また、ゲイやレズビアン性同一性障害のように、「名前のついた、”わかりやすい”セクシャルマイノリティ」に偏ってしまうことも多いのではないかと思います。
つまり、「同性愛者(あるいは性同一性障害)が、社会から差別を受けても色々な壁を乗り越えていく」のような、ドラマチックな話。(もちろん否定しているわけではありません。ハッピーなほうがいいもんね)

でも、果たして、現実にわたしたちが向かい合う問題はそんなに単純化できるのでしょうか。
そもそも、「セクシャルマイノリティ」と言っても千差万別十人十色、象徴たるレインボーフラッグが表すように、性はスペクトラム(連続体)です。カテゴリー分けはもちろん便利ですが、そこからもこぼれる人たちはどうすれば良いのでしょうか。
しまなみ2巻でメインとなる美空さんは、男として生まれ、男であると自認していますが、女装をしています。
美空さんは性同一性障害というわけではなく、でも声変わりなど男性性が自分に表れることにひどく不安や恐怖を感じているようにも見えました。じゃあ、美空さんはなんなのか?


「僕のことなんか僕にもわからん。」
「誰にも。」
「なんにもわからん。」

(「しまなみ誰そ彼」2巻63,64頁より引用)

二巻では、たすくが美空さんと段々打ち解けていくさまを描いていますが、とある出来事により、美空さんは談話室へも顔を出さなくなってしまいます。

ネタバレになるのでその詳細は省きますが、そこまでこじれてしまったのは、たすくと美空さんがお互いに当事者であり、同時に非当事者であったからなのではないかと思います。

たすくは性自認が男で、男性が好きで、美空さんも性自認は男だけれど、女性の格好をしたくて、男性的な身体になるのを怖がっていて…

セクシャルマイノリティ、あるいはLGBTというくくりでは確かに二人は(もちろん同じ談話室メンバーの大地さんも)同じカテゴリの当事者なのかもしれません。けれども、細かくほぐしていけば最終的には、個々の人間しかいない、のでは?

たすくは、無意識にカテゴリで美空さんを見てしまっていたから美空さん本人が見えていなかったのかもしれません。こうすれば、こう言えば、こうなれば、○○というカテゴリにいる美空さんにとっていいのではないか、という思い込み。それが逆に美空さんを傷つけてしまったのではないでしょうか。
もちろんこの決めつけはたすくだけでなく、美空さんの側も、ゲイならこうなんじゃないですか、ということをたすくにずけずけと言っていたりします。

二人がお互いのことを属性や要素で見ることなく、ただ個別の人間であるということを分かるといいなあと思います。

次巻へのヒキも気になる感じですので、皆さん今のうちに買って読んでください、そして一緒に苦しもう!!!

ゲイシャパラソル自分用メモ※2016初演

5/27(金)、あやめ十八番「ゲイシャパラソル」初日いってきました~
以下、ネタバレもりもり自分用メモなのでまだみてない人はブラウザバックお願いします。

初日
舞台左側席の最前列真ん中にて。
スタッフさんまだ箱になれてない感?動線とイス配置とか
チケットデザイン複数種かしらん?ニューヨークって書いてあった、、

相変わらずいきなりの大声びびるわたし
不気味なこじき、歩き方、喋り方、目線…
りょんりょんさんのうつくしい着物姿、着物かわいいみんな~
もりこさんはじめ芸者さん方の流し目のうつくしさたるや
中国語らしきファンファンの言語、はじめ日本語の崩したやつとおもったから聞き取ろうとしてしまって日本語のセリフききのがしたり

なんかいまのいろんな問題をモチーフにしててとちゅうしんどかった、戸籍がないとか金で買ったりとか、なんとか
鬼とカマキリのくだり笑う
音楽隊男ふたりがよくみえた、そめのすけちゃんの歌のお稽古場面で姐さんが「角がとれると~」言ってるあたり、お手手でわちゃわちゃかわゆし
クロスオーバー的な、スターシステム的なサムシングうれしいね諏訪さんち…
ラスト、なんだかんだ父親の影がまとわりつく二人……やだよ~しあわせになってくれ

感情の高ぶり?波?が「大きな声」1択なきがする、?全体的に音量が大きいのでしんどさがあるけど、まあ相性かな、ラストの日色の奥さんみたいな演技がもうすこし欲しいかも、個人的意見
あと仇吉過去話のとこ説明多くて詰め込み感ある、「伏線をまとめて回収する爽快感」と「ラスト近くに伏線回収詰め込む」との違い?


5/27
5/28追記、変更

色々見に行くよ まとめ

こんばんは。元気に社会人していますゆんかわです。

あやめ十八番の新作(&再演)まで一月を切りましたね。再演の「江戸系 諏訪御寮」はわたしが演劇に足を踏み出すきっかけとなった作品なので、非常にうれしいです。新作もめっちゃかわいいポスターに期待値が高まります。

あと、あんステことあんさんぶるスターズ!オンステージがなんと!当たりました!すげー!しかも土曜!すげー!!記念応募的なノリだったのでまさか当たるとは思っておらず、メールを見て駅でびびってました。
2.5次元の舞台は(劇団四季のディズニーシリーズは別として)初めてなので、どんなもんかとドキドキしております。キャラビジュアルをみる限り、スバルがゲームのまんまなスバルでかわいいです。らびっつおじさんな私としてはらびっつの面々が気になる…。

まだまだあります。7月頭には「クロードと一緒に」も行きます。ひょんなことから知って、しかも松田凌くんが出るということで気付いたらチケットを取っていました。本当に初心者で申し訳ないのですが、どうやら今回は再々演、しかもストレートプレイではなく朗読劇のようで、また新しい体験ができるな~と楽しみです。

そしてライブ!GRANRODEOの夏の箱ツアーですよ!Zeppダイバーシティのチケットをどうにか校にかもぎ取りました。最速ファンクラブ先行なので整理番号に期待。

こんなかんじで盛りだくさんな2ヶ月が待っているので、お仕事がんばろうね!という自分への鼓舞、兼メモなエントリでした。

社会人デビューと大学への郷愁

おひさしぶりです。
一月ぶりのブログ更新でございます。

わたしも4月からいよいよ社会人デビューしました。
なんやかやあって配属が現場職から事務職になってしまい、色々バタバタしています。でも、休みの取りやすさや仕事内容を考えると、事務職のほうになってよかったかな~と思います。

しかしながら、タイトルにありますように大学への郷愁がむくむく沸いてきておりまして、なんだか切ない夕暮れ時です。

会社に入って真っ先に思ったことが、「大学の先生方がいかに私たち学生と対等であろうとしてくれていたか」ということでした。
もちろん、偉そうにふんぞり返ってたり、権威と癒着していたりする教授とかもいます、いますけど、少なくともわたしの学科の専任教員の皆さんは、アカデミックな場において無駄なヒエラルキーを排してくれていました。
わたしの卒論担当の教授においてその傾向が顕著だったかもしれません。癖なのかもしれませんが、教授は基本的に誰に対しても敬語でしたし、上から目線のような指導を受けたことはありませんでした。
他の教員もわたしが感じる限りでは、高圧的な人、権威的な人はいませんでした。むしろ権威に反抗的な人とかもわりといたし…(卒業式の式辞がつまらなかったらヤジ飛ばしたいとか話してたら教授からゴーサインをもらった)

この場合の対等であるというのはフレンドリーということとは全く違って、「学生」というカテゴリーではなく「わたし」個人と相対してくれている、そこが大学の心地よさだったのかもしれません。そしてその対等な関係で、答えの見つからないことをずっとディスカッションして、そういうことが社会に出た今ではとても羨ましいな、と思うのです。

すきなのかきらいなのかわからないというはなし

わたしは中学校からおよそ10年ほど、ずっと合唱をしてきました。本当にたまたま、部活動見学で中学校の音楽室に行かなければ合唱を始めることは無かったし、そうなると高校も違うところだったかもしれない。大学に入ってからはサークルではなく地元のほうで2つの社会人合唱団に入っていました。

それだけずっと続けてるとよほど合唱好きなのねってかんじですが、じつは去年の年末に合唱団は2つともやめました。

バイトの人員不足と就職活動、それに卒業論文が重なって物理的に合唱に割く時間がなくなり、2015年の初夏から合唱団を実質的にお休みしていました。死に物狂いで色々こなして、夏休みころにふっと暇ができたとき、「合唱をしたくて仕方ない!」という気持ちがないことに自分で気づきました。

というかそもそもわたしは本当にやりたくて合唱をしていたのだろうか?他にできることがないから消去法で選んだのではないか?など、色々考えてしまい、余計につらくなっていました。
そうなると時間ができても気が向かないのでほとんど休んでしまい、結局はやめてしまいました。

ちなみに今現在も合唱がなくてもとても楽しい毎日を送ってます。だからもうわたしはそっちにはいかないんだろうな。
中高の顧問や団の指揮者、先輩には本当にお世話になってきて(特に高校の部活の関係は7年くらい関わりがある)、それなのに「やっぱわたし合唱そんな好きじゃなかったっすわ~」と言うのがものすごく申し訳なくて、でもそれが本心なんだから仕方ないよなあ…と現在進行形でぐるぐる悩んでいます。

好きってなんなんだろうなー。きらいではないんだけど、もっと好きなものがたくさんできて、優先順位が下がったというべきなのか。
10年もやってくると、自分と同化しているというか、わたしの根っこの部分を形作ってしまってるので、自分のこれまでを否定してしまうような気がするのもつらい。アイデンティティとしての合唱、あるいは合唱団。合唱団のなかでわたしはわたしたりうる…?わからない

もっとシンプルに考えればいいのかもしれないけれど、わたしのこの気持ちのもやもやとか、つらさとか、そういうことを考えないとだめな気がするんだな。

少年社中×東映「パラノイア★サーカス」

久しぶりに(といっても年末のあやめ十八番の番外以来)舞台みてきました。
以前書いた「ラジオスターの悲劇」の少年社中×東映の舞台です。

3月2日の15時からという平日昼の公演でしたが、開場前からロビーは人だかりでものすごいことになっていました。開場待ちの人が多過ぎてろくに歩けなかったり、グッズ販売列が2階まで続いてたり…。

ストーリーはもちろん、舞台とか衣装とかがとにかく好みドンピシャでパーフェクトに面白くてずーっと興奮していました。衣装だとイモムシ婦人とルパンとコバヤシ少年のものがかわいくてすきです。とくにルパンのあの金ぴかヒラヒラ……アクションのたびにはためくヒラヒラ……。
あとコバヤシ少年が拳銃でドンパチするシーンの無邪気なかわいさ、乱歩の真面目なのにちょっと抜けてるおかしさ、などなど、登場人物のキャラクターがとても立っていて、脳みそに焼き付いてしまった…。

登場人物全員で台詞を次々と切れ目なく言っていくシーンがあったのですが、これがもうかっこよくて!決めるところを決めると映えますね~。

DVDの予約も済ませたので、夏に発売されたらまためいっぱい楽しもうと思います。