みたもの備忘録

ジャンルを行き来するオタクの妄言。たまにまじめなこと

花組芝居「泉鏡花の夜叉ケ池」感想その2(追記拡大版)

二夜連続こんばんは。
前エントリで花組芝居 ぼろぼん忌「泉鏡花の夜叉ケ池」感想を書いたのですが、一日経って読み返したら思っていた以上に日本語としてダメダメで恥じ入ったため、追記で済まそうとしていたものをまるまるひとつのエントリにいたしました。

えー今日の私は昨日と違います。何がというと泉鏡花の原作を読んだのです。偉い!(偉くない)

戯曲、高校生のときにハムレットを読もうとして断念して以降、素読するもんじゃないなと避けていた(外国の戯曲は訳が良くないとかそういうこともあるだろうので泉鏡花とイコールでは語れないですが)のですが、舞台に現されたものを観てきた後、学円、晃、百合さん、白雪姫、人びとやばけものが花組芝居の役者さんの声で、ころりころりと歌うように語る音が聞こえてきました。

戯曲はやはり演じられたものを見るのが良いのだろうなと思いつつも、でも初演の時は前例がない訳で、脚本家演出家そして役者はあのそっけない文から情感豊かな芝居へ仕立てるのだから、ハァすごいことだなぁとしみじみ思うのです。


話をお芝居のほうに戻しますと、何やら観客も踊らされるぞと色んな人が口々に言っていたものですから身構えておりましたら、途中でキャンプファイヤーのフォークダンスみたいなことを一列目のお客さんがさせられていて、前に座れば良かったと後悔したことは言うまでもありません。
あそこで観客参加をするとともすれば安くなってしまいそうなのに、楽しいながらもその一瞬後にはまた芝居がそこにあるバランスがすごいものだわと感じました。



それと、座長の白雪姫、一日経ってみてやはりすごかった、としみじみ感じ入った話。
ひとのごとき恋心もありながら、常に背筋が凛として、指先のかたちまでもかみさま然とした白雪姫。特にラスト、釣鐘が落とされ地震とともに水がごうごうと池から溢れだす場面、人ももののけも皆が魚となって姫様の周りをぐるぐるとしている、その中心で姥へ語りかける際のお顔がとても優しくて、何故か泣きそうな気持ちになってしまう力がありました。

晃と百合さんは死にましたけれど、夜叉ケ池から溢れ出した水のなかで魚になれたのでしょうか、姫様と共に剣ヶ峰へ行けたのでしょうか。そうであってほしいな。

花組芝居 ぼろぼん忌「泉鏡花の夜叉ケ池」

芝居の感想エントリがひさしぶりのゆんかわです。
年末の霓裳羽衣の感想を書きそびれてしまったのにこっちは書くのかよ!という感じですが、取り急ぎ。

実はこの演目、やるのは知っていたのですが仕事の都合などで観に行くつもりがありませんでした。ですが、友人が面白かった!とオススメしてくれた&たまたま休みが取れていた為、ええーいと突発でチケットを取り本日参りました二子玉川セーヌ・フルリ。初めてだー。
以下多少ネタバレありの感想です。


最初がお米をとぐ音から始まったもんだから、あらあらしんみりとしたお芝居なのかしらん……と思っていたら、最終的にみんなで盆踊りをしていました。
今回は坊屋組だったので百合さん役は二瓶さんでしたが、愛らしくて色気があって、まさに百合のごとく舞台に咲いておられました。実は二瓶さんの演技は霓裳羽衣で初めて拝見、今回は二度目でしたが、無垢な少女の演技の説得力が半端ではないなぁ……。

小林さんも霓裳羽衣ぶり三度目くらい、芯の通った凛々しいお声とインドの神様のごときお顔がめちゃくちゃ好みだということが発覚したので、とても嬉しく観劇いたしました。かっこいいな~~~。死ね、死ね、死なぬのか!のところが特に好きです。

桂さんは職場の人に似ているというごく私的な理由により観ていて何だか照れ臭かったです。それはさておき、序盤でおちゃらけた顔ばかりしていた山沢さんが、ラストで萩原さんに時間を告げる所、その後ふたりの亡骸に手を合わせるときの顔と声音がとても好きでした。

座長の白雪姫の美しさったら!化粧してはいるもののほぼすっぴんで普通の男性のお顔なのに、歩き方指の動き声音すべてが美しい人ならざるお姫さまでした。舞の見せ方も余計なものがない分、白雪姫のかみさまとしての役割といち個人的としての恋心が直に伝わってくるような。

植本さんがとにもかくにも自由人で、場をやたらと引っ掻き回しては風のようにさらりと去っていくものだから、観ているこっちどころか役者陣まで苦笑していて、とくにいじられてむくれている二瓶さんがとても可愛らしゅうございました。二瓶さん、原川さんにもいじられていたね。

音楽はいい意味でトンチキな、昔っぽいこもった録音で良かったです。基本的に行進曲みたいなズンチャズンチャな感じで、近代日本の話なのにばけもの?のみなさんの鳴り物もあいまって不思議な空間に。

不勉強なので原作を読んでおらずよくわかっていないのですが、最後のあのゴオオという音は雨だったのでしょうか、それとも洪水だったのでしょうか?最終的に人もばけものも生き物皆がおひぃさまと共に水の中で踊り、舞台の周りをぐるぐると回っているところが何とも美しかったです。

実は花組の公演は夢邪想しか観ておらず、今回二度目だったのですが、突発で観て良かったです。
終わって階段を上がり、まぶしい夕日を浴びながら「楽しかった!!」と思えた幸せな日曜でした。

映画「この世界の片隅に」 陳腐なる感想

お久しぶりです。あやめの感想を書きたかったのですがひと月経ってしまったので断念したゆんかわです。日にちがありすぎて他人の感想と混じってしまった…。

ので、今回は観に行きたてホヤホヤの「この世界の片隅に」の感想です。
舞台は行くくせになぜか映画を観るという行為が本当に苦手な人間なので、行くべきと思いつつもなかなか重たい腰を上げられず、年明けになってしまいました。
どういう内容、どういうスタンスの映画なのかはTwitterなどでぼんやりと把握していたのですが、決定的なネタバレは踏まないように頑張っていたので、物語に対してはまっさらに向き合えたかな~~~と思います。
観終わったあと、涙をボロボロ流しながら脳みそをフル回転させたのですが、どーーーしても陳腐な言葉しかでて来なかったので、開き直ってブログにします。
ちなみに序盤からラストまでのネタバレ全開なので観てない方は今すぐUターンをお願いします。

全体的な感想

いつだったかTwitterで、のんちゃんの演技がどんどんすずさんそのものになっていく、みたいな感想を見かけて、本当にその通りだったな………と思いました。本職の皆さん(細谷さんとか最高に優しい声だった好き)はもちろん完璧なんですが、のんちゃんって正直滑舌そんなに良くないし(批判ではない)、広島の出身でもないし、浮いてしまいそうな気がしてたんですが、観ているうちにそんな感覚はなくなって、すずさんがしゃべっているなあ、という気持ちだけになっていました。すずさんのぼーっと感とのんちゃんのぼーっと感がリンクしてたのかしら。

随所に挟まれる、クスッとするシーンが、間の取り方とかが絶妙で、厳しい時代の中の少し気持ちのほぐれる瞬間ってあんな感じなのかな、なんて思いました。個人的に好きなのは憲兵に絵を見つかったあとのみんなが笑っている(すずさんだけがむくれてる)シーンです。いいおうちに嫁いだね……(誰目線なんだろうか)

あとすずさんと周作さんがちゃんとお互いに好き合っていて、慈しむように暮らしている、それだけで幸せで、防空壕の中で口づけをしている場面では泣くところではないだろうにめちゃくちゃ鼻をすすりハンカチで涙を拭っていました。ささやかな幸せにやられる。


「恐ろしさによる涙」が流れた

毎年夏になると、テレビでよく戦争ものの番組やってますよね。最近はCGの進歩で爆撃シーンが非常にリアルだったり、あと当時の写真・映像をカラーにしたりリマスター?をしていたり、終戦から何十年後に生まれた私たちでもかなり鮮明な視覚イメージを得ることができるようになっています。
また、小中学生だと学校の行事でお年寄りの体験談を聞くこともあると思います。

でも、そういうものを見聞きしていても、個人的に恐ろしさというのはあまり伝わってこないと思っていました。グロテスクで悲惨で、血にまみれている戦争体験は、グロテスクで悲惨であるがゆえに、私のこの清潔で整った生活からは乖離して感じられました。「そうなったら嫌だなあ」くらいの感覚で、恐ろしさまではいかない、グロテスクな物事への嫌悪観止まり。
つまり、戦争による「恐怖」をあまり感じたことがありませんでした。

ですが、この映画で、人生でほぼ無いであろう「恐ろしさによる涙」を流しました。
Twitterでも言及しましたが、爆撃機の落とした爆弾が上の畑や家屋にダダダッと刺さる場面、それとすずさんとはるみちゃんがいる防空壕が空襲でゴオッと揺れる場面、このふたつのシーンは本当に「こわい」という感情から涙が出ました。

リアルなCGより、お年寄りの語る言葉より、あの飛んでくる爆撃機を大砲で打ち落とす、絵の具をカンバスにぶつけたようなあのシーンが、人生で一番「恐ろしい」戦争の場面でした。


技術?的な感想(素人だけど)

終戦のラジオ放送のあと、上の畑で泣くすずさんのシーンをみて、「そうか、このためのカメラワークだったんだな」と感じました。
まあバトルものでもないですし、カメラの位置は基本的に固定というかあんまり凝ったものではないのは当たり前なんですが、最初からずっと第三者的な、距離のあるカメラで、この場面になって地面の虫のような近さ、あぁ、と思いました。すずさんの感情がそれまでのどの場面よりダイレクトに流れ込んでくるような、そんな感じ。
(「二人分」のいもごはんのとこもやたらに強調かかってた気がするけどそれはそれ)



日曜の朝には少しばかりヘビーでしたが、観てよかった!と本当に心から思える映画でした。
映画は原作から色々なところをカットしているでしょうし、表現方法が違うとまた受け取り方も変わると思いますので、ぜひ原作も読んでみたいと思います。

当事者であり非当事者であること 「しまなみ誰そ彼」を読んで

お久しぶりです。
以前にもご覧いただいた方には分かると思いますが某ソシャゲの記事消したのでかなり間が空いてしまいました。


さて、今回は鎌谷悠希先生の「しまなみ誰そ彼」の感想、およびそれに付随する話です。


クラスメイトに"ホモ動画"を観ていることを知られた、たすく。
自分の性指向が知られたのではないかと怯え自殺を考えていた彼の前に、「誰かさん」と呼ばれる謎めいた女性があらわれた。
彼女は、たすくを「談話室」へと誘い…?

(あらすじより引用)

鎌谷先生といえばGファンタジー連載作「隠(なばり)の王」を思い起こす方は多いのではないかと思います。わたしも隠の王からファンになり、「少年ノート」「ぶっしのぶっしん」そしてこの「しまなみ誰そ彼」(以下、「しまなみ」)と追いかけてきました。
また、鎌谷先生はご自身もいわゆる「セクシャルマイノリティ」に属されていることを公表されています。(この「属する」というのがまた厄介なんですよね。それはしまなみ2巻の感想と絡めて後程)
ですので、しまなみ連載の報を聞いたときは、本当に本当に嬉しくて、楽しみで、待ちきれずにいました。

この作品を読んでみて思ったのは、読むことにこんなにも体力が必要な作品はなかなかないだろう、ということです。
「ホモ動画」騒動の翌朝登校したたすくのことをからかう男子、たしなめる女子と教師、その全てに含まれる意識的・あるいは無意識の差別的な響き、ばれた瞬間の心臓が飛び出すかのような吐き気と焦り…
あまりにも生々しいです。読んでいてもしんどくて、休憩を挟まないとこちらまでひきずられてしまいそうなくらいに。

わたしは、セクシャルマイノリティを描く物語は、得てして理想郷的になりやすいと思っています。
また、ゲイやレズビアン性同一性障害のように、「名前のついた、”わかりやすい”セクシャルマイノリティ」に偏ってしまうことも多いのではないかと思います。
つまり、「同性愛者(あるいは性同一性障害)が、社会から差別を受けても色々な壁を乗り越えていく」のような、ドラマチックな話。(もちろん否定しているわけではありません。ハッピーなほうがいいもんね)

でも、果たして、現実にわたしたちが向かい合う問題はそんなに単純化できるのでしょうか。
そもそも、「セクシャルマイノリティ」と言っても千差万別十人十色、象徴たるレインボーフラッグが表すように、性はスペクトラム(連続体)です。カテゴリー分けはもちろん便利ですが、そこからもこぼれる人たちはどうすれば良いのでしょうか。
しまなみ2巻でメインとなる美空さんは、男として生まれ、男であると自認していますが、女装をしています。
美空さんは性同一性障害というわけではなく、でも声変わりなど男性性が自分に表れることにひどく不安や恐怖を感じているようにも見えました。じゃあ、美空さんはなんなのか?


「僕のことなんか僕にもわからん。」
「誰にも。」
「なんにもわからん。」

(「しまなみ誰そ彼」2巻63,64頁より引用)

二巻では、たすくが美空さんと段々打ち解けていくさまを描いていますが、とある出来事により、美空さんは談話室へも顔を出さなくなってしまいます。

ネタバレになるのでその詳細は省きますが、そこまでこじれてしまったのは、たすくと美空さんがお互いに当事者であり、同時に非当事者であったからなのではないかと思います。

たすくは性自認が男で、男性が好きで、美空さんも性自認は男だけれど、女性の格好をしたくて、男性的な身体になるのを怖がっていて…

セクシャルマイノリティ、あるいはLGBTというくくりでは確かに二人は(もちろん同じ談話室メンバーの大地さんも)同じカテゴリの当事者なのかもしれません。けれども、細かくほぐしていけば最終的には、個々の人間しかいない、のでは?

たすくは、無意識にカテゴリで美空さんを見てしまっていたから美空さん本人が見えていなかったのかもしれません。こうすれば、こう言えば、こうなれば、○○というカテゴリにいる美空さんにとっていいのではないか、という思い込み。それが逆に美空さんを傷つけてしまったのではないでしょうか。
もちろんこの決めつけはたすくだけでなく、美空さんの側も、ゲイならこうなんじゃないですか、ということをたすくにずけずけと言っていたりします。

二人がお互いのことを属性や要素で見ることなく、ただ個別の人間であるということを分かるといいなあと思います。

次巻へのヒキも気になる感じですので、皆さん今のうちに買って読んでください、そして一緒に苦しもう!!!

ゲイシャパラソル自分用メモ※2016初演

5/27(金)、あやめ十八番「ゲイシャパラソル」初日いってきました~
以下、ネタバレもりもり自分用メモなのでまだみてない人はブラウザバックお願いします。

初日
舞台左側席の最前列真ん中にて。
スタッフさんまだ箱になれてない感?動線とイス配置とか
チケットデザイン複数種かしらん?ニューヨークって書いてあった、、

相変わらずいきなりの大声びびるわたし
不気味なこじき、歩き方、喋り方、目線…
りょんりょんさんのうつくしい着物姿、着物かわいいみんな~
もりこさんはじめ芸者さん方の流し目のうつくしさたるや
中国語らしきファンファンの言語、はじめ日本語の崩したやつとおもったから聞き取ろうとしてしまって日本語のセリフききのがしたり

なんかいまのいろんな問題をモチーフにしててとちゅうしんどかった、戸籍がないとか金で買ったりとか、なんとか
鬼とカマキリのくだり笑う
音楽隊男ふたりがよくみえた、そめのすけちゃんの歌のお稽古場面で姐さんが「角がとれると~」言ってるあたり、お手手でわちゃわちゃかわゆし
クロスオーバー的な、スターシステム的なサムシングうれしいね諏訪さんち…
ラスト、なんだかんだ父親の影がまとわりつく二人……やだよ~しあわせになってくれ

感情の高ぶり?波?が「大きな声」1択なきがする、?全体的に音量が大きいのでしんどさがあるけど、まあ相性かな、ラストの日色の奥さんみたいな演技がもうすこし欲しいかも、個人的意見
あと仇吉過去話のとこ説明多くて詰め込み感ある、「伏線をまとめて回収する爽快感」と「ラスト近くに伏線回収詰め込む」との違い?


5/27
5/28追記、変更

色々見に行くよ まとめ

こんばんは。元気に社会人していますゆんかわです。

あやめ十八番の新作(&再演)まで一月を切りましたね。再演の「江戸系 諏訪御寮」はわたしが演劇に足を踏み出すきっかけとなった作品なので、非常にうれしいです。新作もめっちゃかわいいポスターに期待値が高まります。

あと、あんステことあんさんぶるスターズ!オンステージがなんと!当たりました!すげー!しかも土曜!すげー!!記念応募的なノリだったのでまさか当たるとは思っておらず、メールを見て駅でびびってました。
2.5次元の舞台は(劇団四季のディズニーシリーズは別として)初めてなので、どんなもんかとドキドキしております。キャラビジュアルをみる限り、スバルがゲームのまんまなスバルでかわいいです。らびっつおじさんな私としてはらびっつの面々が気になる…。

まだまだあります。7月頭には「クロードと一緒に」も行きます。ひょんなことから知って、しかも松田凌くんが出るということで気付いたらチケットを取っていました。本当に初心者で申し訳ないのですが、どうやら今回は再々演、しかもストレートプレイではなく朗読劇のようで、また新しい体験ができるな~と楽しみです。

そしてライブ!GRANRODEOの夏の箱ツアーですよ!Zeppダイバーシティのチケットをどうにか校にかもぎ取りました。最速ファンクラブ先行なので整理番号に期待。

こんなかんじで盛りだくさんな2ヶ月が待っているので、お仕事がんばろうね!という自分への鼓舞、兼メモなエントリでした。

社会人デビューと大学への郷愁

おひさしぶりです。
一月ぶりのブログ更新でございます。

わたしも4月からいよいよ社会人デビューしました。
なんやかやあって配属が現場職から事務職になってしまい、色々バタバタしています。でも、休みの取りやすさや仕事内容を考えると、事務職のほうになってよかったかな~と思います。

しかしながら、タイトルにありますように大学への郷愁がむくむく沸いてきておりまして、なんだか切ない夕暮れ時です。

会社に入って真っ先に思ったことが、「大学の先生方がいかに私たち学生と対等であろうとしてくれていたか」ということでした。
もちろん、偉そうにふんぞり返ってたり、権威と癒着していたりする教授とかもいます、いますけど、少なくともわたしの学科の専任教員の皆さんは、アカデミックな場において無駄なヒエラルキーを排してくれていました。
わたしの卒論担当の教授においてその傾向が顕著だったかもしれません。癖なのかもしれませんが、教授は基本的に誰に対しても敬語でしたし、上から目線のような指導を受けたことはありませんでした。
他の教員もわたしが感じる限りでは、高圧的な人、権威的な人はいませんでした。むしろ権威に反抗的な人とかもわりといたし…(卒業式の式辞がつまらなかったらヤジ飛ばしたいとか話してたら教授からゴーサインをもらった)

この場合の対等であるというのはフレンドリーということとは全く違って、「学生」というカテゴリーではなく「わたし」個人と相対してくれている、そこが大学の心地よさだったのかもしれません。そしてその対等な関係で、答えの見つからないことをずっとディスカッションして、そういうことが社会に出た今ではとても羨ましいな、と思うのです。